三月三日夜、深雪の中で行われる裸押合祭は日本の三大奇祭の一つと云われ、「北越雪譜」の中にもその当時の祭典の様が詳しく記されてる。今から約千二百年
前(大同二年)将軍「坂上田村麻呂」がこの地にお堂を建て守護仏の毘沙門天王を祀って、その将士や村長、村人と供に国家安穏を祈願し、併せて五穀豊穣*家
内安全*身体健康を祈り祝宴の中で歌い踊って士気を鼓舞した事に起因するものと推察する。
其の後毘沙門天の霊験あらたかさと幕府の庇護にあづかった事により歳々参拝者が多くなっていった 古くは正月三日に行われて来た行事が何時の頃からか気候風土其の他の関係
により現在の三月三日に行われる様になった。 昔は年一回の初詣の正月三日にお堂の唐戸を開きご本尊様の御簾を開帳して行われる行事に、毘沙門天を信仰する人々が各地から集まり賑わいと混雑を極めた。
其の多くの信者が他 の人よりも早く参拝しようともみ合い押し合う其の暑さと、年頭に其の年の除災招福を願う心から水浴後参前するする。 これ等の事が交じり合って次第に裸になる者が多くなって、何時
の代にか全員裸でご本尊に額ずくようになり今の押合祭に受け継がれている。 更に現在では、交通安全、商売繁盛、合格祈願等を祈願し数多くの人々の参加によって厳粛かつ勇壮にこの裸押合い祭りがとりおこなわれている。(地元文献よ
り)
越 後浦佐毘沙門堂 裸押合大祭 祝 国の無形民族文化財に指定 今までに何度もお邪魔に来ているこの「裸押合大祭」の様子は一言で言い尽くせない、語れない、言葉に成らない、”凄い!”としか。 何が?当日の行事が1 0〜20分おきにひきも切らさず同時進行(別紙)である、此処での撮影はもう少しで最高潮になるのに、境内では福餅撒きが始まる、アチラ立てれば此方立た ずなのです。どうしてもこの様子を全て伝えるには単独撮影は不可と事前に「浦佐多聞青年団長*関和幸」様宛てに二人での撮影許可をお願いしていた、報道内 容が満たしてるとで撮影承認を戴いた。 承認戴いたからには始めから終わり迄撮影するが礼儀の主義、朝六時に新潟発*着後直ぐおねり係事務局小島氏にの挨拶もそこそこに関団長の訓示から撮影開 始。団長以下関係者の訓示の声が冷えた境内の空気を通した、各人其々持ち場に機敏な動作で散る。 此処で私等は朝食です、スケジュ−ル表頂き各行事の綿密な打ち合わせする、表一杯にギッシリ書かれたのを見て改めて 驚き油断が出来ないと感じた、戴いた報道の腕章に恥じないよう にと。
毘沙門天のお加護か雨は無い天に通じたようだ。 本堂で護摩焚きが始まる頃には沢山の信者が東照宮陽明門を似して建てたとの山門をくぐって上ってこられた。
読経の中、外では福撒与(福渡し*老人子供には手渡しである、優しい労わりの教えでである) 今回、中越地震復興支援として川口町、小千谷市、旧山古志村の皆様200名を招待された、直江兼続の「愛」が脈々と受け継がれているんですね。第一回の福
餅 撒与が始まった怪我人が無いように手持ち品は係に預ける気配りです、さて此処で静止画では伝わらないので動画編で音声を楽しんで欲しい、実に団長初め
講中の駆け引きが楽しい、”撒くぞ撒くぞ”とじらす団長、”撒けよ撒けよと”だんだん声が大きくなる、之が昼の部で五回も有るのは驚きですね。皆さんの袋
には沢山の餅がありました、私等も拾ったかって?さ〜〜?カメラは離せませんよ。第二部は巨大な蝋燭と炎と水の迫力です。
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