木津地区の賀茂神社には、棧俵(サンバイシ)神楽という極めて珍しい神楽が存在しています。このような奇抜な神楽は、世間広しといえども、あまり見当たらないといわれています。
この神楽は、稲ワラを編んだ棧俵(サンダワラ)を2つ合わせて大きな口とし、ナスの目に、カボチャの鼻、熊桿(クマビエ)を髪として、歯は唐竹を割り組み合わせて金紙を貼り付けて作られた見事なものです。毎年9月上旬に神楽が奉納され、その後、近くの小阿賀野川に流されます。
木津は、上、中、下の3つの集落により形成され、上木津には諏訪神社、中木津には日吉神社、下木津には賀茂神社があり、それぞれ集落の氏子によって祀られています。日吉神社には古くから伝わる立派な大神楽があり、現在も保存会の手により毎年の祭りには神楽舞やお伊勢踊りなどが披露されています。
しかし、昔から賀茂神社の氏子の若者だけが大神楽を持たなかったことから、毎年の秋祭りが近づくと、今年こそは神楽を買ってもらいたいと、氏子の役員や地元の有力者にお願いを繰り返すのですが、なかなか理解が得られず途方に暮れるだけでした。
地元の古老の話によると、この神楽が登場し、滑稽な舞を始めたのは110年ほど前の明治30年頃といわれています。ある秋祭りの晩にお宮に集まり、御神酒をいただいて元気を出した若者の1人がやおら立ち上がって、当時の農家であればどこでも見られた、古棧俵を2枚と、鶏小屋から蚊帳を持ってきて、宵宮参りの大勢の氏子を前に威勢よく滑稽な舞をやってのけ、みんなを爆笑させたということです。これは、神楽を買ってもらいたい若者たちの氏子役員に対するデモンストレーションだったとも言われています。
大正2年、木津の破堤箇所を必死で復旧する村人。時には軍隊の出動もありました。 何しろ、当時の木津は水害の連続であり、県の水害史にも残る木津切れの有名な地域でした。特に下木津地区は大正2年(1913年)8月28日の豪雨により、賀茂神社前の小阿賀野川の五本榎(ゴヘノキ)堤防が決壊し、死者2名、流失家屋2戸、下木津の全住民は木津小学校の2階に相当期間、避難生活を余儀なくされたということです。このような悲惨極まる水害により、せっかく稲穂が重たく垂れた稲も刈り入れを前に全滅的な打撃をこうむり、農民はただあ然とするばかりでした。その年は病気になる者も多く、水害の後始末などで秋祭りは中止になったそうです。このため、農家の暮らしは苦しくなるばかりでした。この苦しい生活を身をもって感じている若者も、大神楽を買ってもらうという長年の夢をきっぱりとあきらめて、今まで余興のようにして続けてきた棧俵2枚だけの粗末な神楽をもっと立派なものにして、賀茂神社の神楽として奉納しようということで、みんなが集まり、知恵を出し合って作られたのが、今日も伝わる手作りの棧俵神楽です。
この神楽は、水害と闘う苦しい農民の生活の中から生まれた神楽です。お金さえ出せば手に入らないものは無いという現代社会に、お金が無くても創意と工夫でできる、楽しめるというこの棧俵神楽の由来を知ることで、物質文明、飽食時代といわれる現代に生きる私たちに、考えさせられるものがあります。
-- 新潟市 江南区歳時記より -- |