中条祭りの山車の言われについて
山車を出すようになったのは、明治の中期頃と聞いています。その頃は北組・神明組・東西組・新町組とあり、二階建てにして欄干を付けてその中に人形を乗せたという事です。
北組は乃木大将、神明組はナイアガラの滝、その上に飾るのは神武天皇でありました。なにしろ神明組の花火屋の先代は、そういう飾り付けの上手い人でした。神明組・北組が早く、やがて東西組という西町と東町の若者の山車、そして下新組と言う下新町の山車ができたそうです。
大正二年、羽越線が開通した年は、雨が多く現在の東屋風の屋根をかけて囃子方を乗せていました。そのころは非常ににぎやかで、夜中の一時・二時頃まで騒ぎ芸者を下ろすと喧嘩が始まり、誰と誰がやっているのか解らず警察もただ見ているだけでした。それが有名になり、近郷近在からも人が見に来るようになったそうです。
囃子方は「ドンドンチェロドンドンチェロ」から始まり、今のノーエ節くずれになっているのもあります。北組と神明組は京都の祇園の流れをくむ囃子でありました。踊りは、かっぽれ山車であったがそこへ奴さん深川おいとこが加わり、宵宮の時は芸者さんも丸髪に烏帽子で流したものだそうです。
北組は天神様なので梅鉢の長いはっぴであったが、大正時代新聞配達が短いはっぴで走っているのがカッコイイと思った若者が短くしてしまったそうです。それから、長さ三尺・一寸五分の柏木を合図に打っていたものも喧嘩の道具として使うので、使用が廃止になったそうです。ですが、下新組の柏木を打つ若衆は、長襦袢を着てたすきを掛けて柏木を打つ姿はなかなか粋なものでした。
下新組の山車は、夕方になると女郎屋で客寄せの為太鼓を打ち、暇な芸者が三味線を弾き笛を吹く、それがはやしの始まりと言われています。昔は各町内に店を構えていた廓を、明治の始めに新町という街を作り花柳界として新町に集めました。そこの行事として台輪のような人形を乗せた山車を引いたのが驛新組の伝統となりました。現在のようなだしになったのは、欧州対戦のころからで新町には100人もの娼姑がいたと言われています。その人達は舘の越のお宮参りのみ外出が出来て、あとは新町からでられなかったそうです。芸者さんたちは自由でしたので、山車に乗り新町のPRをしたものと思われます。山車に芸者を乗せ、手踊りをさせて町内を回ると言う祭りは、全国的にも例が無いのではないでしょうか。こうした祭りは、中条町が発祥の地ではないかと思います。
------以上、中条祭りの座談会より。------資料提供:中条町商工会 |