義士祭 武庸会

2007.12.14 撮影 STAFF fuji

元禄15年12月14日 ”夜半から冷え込む、無尽の会合と蕎麦屋の2階に集まる47人、火事装束に身を固め「山と川」との合言葉 「サク サク サク」白い雪を蹴立てて目指すは主君「浅野内匠 頭」怨 敵「吉良邸」〜松阪町”〜 ご存知赤穂浪士の討ち入りの日です。
縁の有る各地では「義士祭」が行われています。此処”出生の地、新発田市「堀部安兵衛武庸」縁の長徳寺でも「武庸会」(堀部安兵衛武庸の人間を追想し、之を顕彰する、大正2年に結成)主催で行われました。 安兵衛は新発田藩溝口信濃守の家来で家老上士(200石)の身分家柄の中山弥次衛門の子として寛文10年(1670年)生まれる、生誕337年。父、藩内の失火の責を負い家名断絶、安兵衛13歳、父没後母方(祖母は藩祖溝口秀勝の娘の由緒正しい家柄で有る)に身を寄せ16歳剣術に励む、家名再興を志して19歳で江戸にのぼる、新発田を発つ際に菩提寺「長徳寺」境内に松を手植えしたと伝えられて居る、現在は二代目松が青々している。江戸小石川、剣客「堀内源左衛門」に剣を学びたちまち高弟第一に、21歳で師の代稽古役を務める更に各藩に出向き指南する。其処で松平家臣「菅野六郎左衛門」と出会い叔父甥の義盟を結ぶ。(?講談、映画等で「のんべ安」「けんか安」の異名が有るが喧嘩と酒が好きは誤伝巷説で安兵衛は”全く飲まず下戸である)”元禄七年二月十一日、叔父の菅野と家臣村上庄左衛門との決闘を知り義叔父の助太刀し勝利するが義叔父菅野は深傷を負い絶命する。有名な中山安兵衛25歳「高田の馬場の決闘」である、(高田の馬場YOU歩道には安兵衛マスコット人形が有る之は武勇伝に依り往昔から知られた所) 安兵衛の武勇談を聞いた赤穂藩浅野家江戸留守居役「堀部弥兵衛」(300石)は人柄に惚れ込み娘(ほり)の婿養子にと再三懇願する、(?弥兵衛と娘は決闘の場に遭遇する、安兵衛「誰か襷を貸してくれぬか」に娘は”赤い扱き”を貸した、後に其れが縁で「安兵衛」婿養子に成ったとも有る、之も誤伝巷説かも.)「中山安兵衛」承諾し” 浅野家馬回役 200石「堀部安兵衛武庸」”の誕生で有る。其の後「殿中刃傷事件」が起こり「浅野内匠頭」切腹、お家断絶。「君父の仇は倶に天を戴かず」の武士道の忠義心から堀部親子は「大石内蔵助」を盟主とする赤穂四十七浪士と供に吉良邸に討ち入り見事本懐を遂げ「誉高い赤穂義士」と瓦版が書き立て”忠義”義士”と称えられた。元禄十六年二月四日「松平邸」に於いて切腹する、行年34歳、法名「刃雲輝剣信士」、高輪泉岳寺に四十七義士と供に義父「弥兵衛」と「安兵衛」は静かに眠る。此処新発田市「長徳寺」の”義士祭”は本堂で法要(読経、焼香)や安兵衛を偲ぶ会(各会に依る詩吟、剣舞、歌)が行われた。境内では「庸仁会」皆さんによる美味しい「地酒」「甘酒」「そば」の振る舞いで多くの市民の身体が温まりました。陽の落ちる頃”〜よろっと〜しばた”の灯籠「よろっとうろう」に火が入り「長徳寺」周辺は600個の灯りが幻想的な雰囲気を演出、其の中を自衛隊の音楽隊に先導され、「大石内蔵助役」少年の陣太鼓を合図に少年少女剣士による四十七士市中パレ−ド開始、随所に”エイエイ オ-”の勝どきを揚げ市民の大きな拍手喝采を貰っていました、まさに圧巻元禄絵巻、2KM行進して泉岳寺ならぬ赤い炎が揺れる「長徳寺」に凱旋しました。私は灯籠を抜け中山家の墓に行く、多くの花が手向けられ明かしが燈って此処も静かに揺れてました


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義士祭 2003  城下町 新発田 ふるさと祭り 帰り台輪 五十公野公園 あやめ園 あやめの里の物語

ガス灯ともる桜並木'06 新発田市まちづくり振興公社

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